2013年10月28日月曜日

上高地の歴史 (前編) 槍ヶ岳開山と上高地の名前

ウォルター・ウェストンが世に上高地を
広めたことは、よく知られていますが、
初めて槍ヶ岳登山の目的で上高地に入山したのが
明治24(1890)年といわれています。

(清水屋ホテル近くにあるウェストン碑)

その時は雨の為、撤退。

翌、明治25(1891)年
案内人に上條嘉門次を伴い、
槍ヶ岳に登頂します。

ちなみに播隆上人が槍ヶ岳を開山したのは、
文政11(1828)年です。


その2年前・・・
播隆上人は初めて槍ヶ岳に向かいます。

飛騨新道(信州と飛騨を結ぶ最短のルート)

(焼岳小屋近くにある中尾峠)

を鍋冠山へ登って行きました。
そして、大滝山にあった中小屋(現大滝山荘)で1泊します。

(そういえば、その記念の看板が大滝山荘の受付内の片隅にありました)

翌日、大滝山から蝶ヶ岳に登り、
蝶槍から少し下ってワサビ沢をおり、
梓川のほとりにでて川沿いを登って行きました。

そこに現れたのは、
皆さんもご存じの槍見河原です。

さらに進むと一の俣


二の俣


この一の俣と二の俣で渡渉しました。

ここまでは、杣小屋(きこりさんたちの小屋)があったのですが、
この先は、道もなく、木を切りわけて進んで行きました。

ここから、有名な坊主岩小屋を拠点に槍の肩まで行きますが
その時は登れず、撤退しました。

その2年後、播隆上人は槍ヶ岳に初登頂します。
その後、多くの人が登れるように、まずは綱を。
のちに鎖を掛けることにした播隆上人。

私たちが今、槍ヶ岳に安全に登れるのは
当時、貴重だった鉄の鎖をかけるために、奔走した播隆と
その貴重な鉄でできた鎌やハサミなどを寄進した人々の
おかげではないでしょうか。




と、長くなってしまいましたが、
前編最後にひとつ、
上高地という名前ですが、
神降地・神河内・神垣内など、聞いたことはないですか?
神がつく名は、上高地は穂高明神の奥宮のある神域で


松本藩公用文書では、
上高地は文化・文政期(1804~1829年)の
江戸時代後期に上河内から上高地に変わりました。

地元では「カミグチ(上口)」「カミウチ」と呼んでいたそうです。

ちなみに
槍が八里
穂高が保高
常念が上念
徳沢は遠奥沢
と書かれていることもあったそうです。

つづく

上高地観光施設事業の詳細及びご予約は下記よりご案内しております
記 徳沢ロッヂ  染谷 五月